2011/05/10

「平泉の文化遺産」世界遺産登録へ

岩手県の中尊寺などの寺院や周辺の遺跡からなる「平泉の文化遺産」と、世界でも珍しい動植物が生息している「小笠原諸島」についてユネスコの諮問機関は、それぞれ「世界遺産に登録することがふさわしい」とする勧告をまとめた。

これによって「平泉の文化遺産」と「小笠原諸島」は、ともに世界遺産に登録される見通しが強まっている。

この内の1つ「平泉」とはどんなところであったか。

中尊寺金色堂覆堂
平泉は、11世紀末に奥州藤原氏初代清衡(きよひら)が岩手県南部の江刺から本拠を移したのが始まりと言われている。
清衡はまず塔を建てており、これが関山中尊寺の基となった。

その後中尊寺には金色堂を始め堂、塔が建立され、清衡の死後、遺体は金色堂の内部に葬られた。
二代基衡(もとひら)は毛越寺の造営を開始し、三代秀衡(ひでひら)によって完成された。
秀衡は無量光院、加羅御所、平泉館という政治的中枢部を造り上げており、要所に大寺院を配した拠点平泉がこの代で完成したと言われている。

1187年、秀衡が没した。臨終にあたり秀衡は当時逃亡の末平泉にたどり着いた源義経を大将とし、源頼朝と戦うよう伝えたとされている。
しかし、四代泰衡(やすひら)は、頼朝の圧力に屈し、義経を自害に追い込み、結局頼朝によって滅ぼされ、奥州藤原氏は滅亡した。
毛越寺本堂
観自在王院の浄土庭園

世界遺産への申請で含まれていた構成資産は中尊寺、毛越寺、観自在王院跡、無量光院跡、金鶏山、柳之御所遺跡がある。
これらの文化遺産は、当時の仏教思想の影響を強く受けている。

仏教は6~12世紀に中国大陸から日本列島の最東端へと伝わる過程で、日本に固有の自然崇拝思想とも融合しつつ独特の性質を持つものへと展開を遂げた。
その中でも特に末法の世が近づくにつれて興隆した極楽浄土信仰を中心とする浄土思想が、平泉の仏堂・浄土庭園をはじめとする一群の構成資産の根底にあり、現世における仏国土(浄土)を表現しているとされている。

ちなみに、「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡」とは松尾芭蕉の有名な句だが、これは芭蕉が平泉のかつて隆盛を誇った奥州藤原氏の居館が田野となっているのを見て詠んだものである。

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