2011/04/27

イースター島の謎 新説の登場

イースター島の新石器時代の人々が自らを破滅に追い込んでしまったとする、新しい説を唱えた本が、今年の夏に発売する。
イースター島の原住民に関する議論を呼びそうだ。

イースター島はモアイと呼ばれる何百もの人の顔の形をした石像が、島の海岸に列になって立てられていることで有名な島。
島の原住民はラパ・ヌイという名で知られている。



イースター島のモアイ像
1722年にオランダ人によって発見されたほとんど裸の原住民は、自分たちでモアイを削りだして動かしていたとはとうてい思えないほど、貧窮していた。

一般的な説では、人口1万5000人におよぶ発達した文明が、モアイ像を立てたと考えられている。像を海岸まで運ぶ作業には何百人もの人員が携わり、ロープ、コロ、そり制作に専念する工房があり、その他の人々は労働者の食事を供給していた。

この説によれば、人々がヤシの木を全て使い果たしてしまった結果、生態系は崩壊し、食糧の供給も絶え、続いて争いがおこり、食人が行われた。残りの人々は、オランダ人が訪れる時まで、なんとか生きながらえていた。

しかし、カリフォルニア州立大学の考古学者Carl Lipoとハワイ大学のTerry Huntは別の見解を持っている。そのような高度な文明はなかったというのだ。

Lipo氏によると、ラパ・ヌイ文化はヨーロッパ人が持ち込んだ結核、赤痢、ハンセン病などの病気や、奴隷としての使役、土地の略奪によって消滅に追い込まれ、1877年には推定3000人いた人口が111人まで減ってしまった。

今年の6月に出版される彼らの新しい本(タイトル:The Statues that Walked: Unraveling the Mystery of Easter Island)では、ポリネシアの植民者が1200年頃にイースター島にたどりついた証拠を提出する。これは、これまでの説で推測されていた年代よりも800年ほど新しく、植民者は焼畑農耕によって急速に環境を変えていったとしている。

また、植民者とともにやってきたネズミが、ヤシの森の減少をさらに促した。これらのげっ歯類はヤシの種を餌にしていたのである。

Lipo氏によれば、森の減少は人類にとってはそれほど大きく状況を悪くしたわけではなかったという。
ラパ・ヌイは熱帯の楽園ではなく、古い火山島で、土壌の養分はすでに流されていた。ヤシの木の焼却はこれを促進したが、植民者はすぐに石によるマルチングと呼ばれる技術を導入した。マルチングは自然に壊れた火山性の岩を痩せた土壌に埋め込み、養分を加えて浸食をストップするものである。

岩のマルチングを使用し、オランダ人の来訪時に発見された人々は、モアイ像を切り出して加工した石切り場であるラノ・ラナクから海岸まで像を運ぶことができたのではないか、とLipo氏は言っている。像は冷蔵庫を動かす時のように揺り動かすことで、少ない人員で運ぶことができるようにデザインされていたようである。

同様の説は過去にも提出されていたが、実験を行った結果、海岸に着くまでにモアイ像が擦り減ってしまっただろうといわれている。
Lipo氏は、人類学者でイースター島のチリによる統治で最初の知事となったSergio Rapu氏の助けを借りて、より引きずる時間を少なくし、より多く移動する方法を発見したという。

旧来の説を唱える人は、この新説を甘んじて受けれているわけではない。イギリスの考古学者Paul BahnとJohn Flenleyは新説に対抗して、彼らの著書「The Enigmas of Easter Island: Island on the Edge(邦題:沈黙の巨人―解き明かされたイースター島の謎 (開かれた封印 古代世界の謎)、主婦と生活社)」の第3版の出版を行う予定。
Bahn氏は「彼ら(Lipo氏ら)は口頭による伝承を無視しており、彼らにとって都合のいいデータだけをかいつまんでいる」と批判した。

イースター島はチリ領。「ラパ・ヌイ国立公園」として世界遺産に登録されている。

Has the mystery of Easter Island finally been solved?


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