2011/08/13

「マルコ・ポーロは東方に来ていなかった」説


マルコ・ポーロ(1254年9月15日 - 1324年1月8日)は、ヴェネツィア共和国の商人であり、ヨーロッパへ中央アジアや中国を紹介した『東方見聞録』を口述した人物である。
マルコ・ポーロによる旅の記録は、中世ヨーロッパの人々に中国やシルクロードのエキゾチックな世界を紹介したことで、歴史上偉大な探検家としてその名をとどめるに至った。
マルコ・ポーロの肖像
しかしながら、マルコ・ポーロが中国にも到達しておらず、伝説に残っているようにパスタをイタリアにもたらしたとは到底思われない、という研究結果が提出されている。
むしろ、彼の話は黒海で会ったペルシア人の商人から、中国、日本、モンゴル帝国について聞いた、又聞きの物語であり、他の情報をつなぎ合わせて「東方見聞録」を完成させたというのだ。

専門家はフビライ・ハンに関する彼の記述の首尾一貫性の無さ、不正確さに着目している。
フビライ・ハンは1274年と1281年に日本を攻めている。いわゆる「元寇」である。
「彼は最初の戦と2回目の戦の細部をごちゃまぜにしてしまっている。彼の1274年の侵略に関する記述では、船団が韓国を出発して日本の湾岸に到着する前に暴風にやられたとしている」と日本で調査を行っているナポリ大学のDaniele Petrella氏は述べている。
「しかし、それが起こったのは1281年のことだ。実際に目撃した人物が、7年も離れた出来事を混同するだろうか?」

マルコ・ポーロによるモンゴル帝国の船団に関する記述は、Petrella氏が日本で発見した船の残骸とも異なっている。
記述では5本マストの船と書かれているが、発見された船には3本のマストしかなかった。

「発掘の過程で、マルコ・ポーロの記述に関する疑問が湧き起ってきた」とPetrella氏は語っている。
船に関する用語でもペルシア語が用いられていて、中国語やモンゴル語では意味をなさない単語が含まれていた。
また中国やモンゴルの地名に関しても、現地で使用されていた呼び方ではなく、ペルシア語の名前を用いている。

マルコ・ポーロはフビライ・ハンの宮廷への使節として働いたと述べているが、現存する中国やモンゴルの記録には名前が出てこない。
マルコ・ポーロの事績に疑問をいだいているのは、イタリアの考古学者だけではない。
1995年に出版された「Did Marco Polo Go to China?(邦訳:マルコ・ポーロは本当に中国へ行ったのか)」の著者で、大英図書館の中国セクションの長であるFrances Wood氏は、マルコ・ポーロはおそらく黒海より向こうに行っていなかったと述べている。

日々の生活や信仰を直に見ていたのにもかかわらず、マルコ・ポーロの中国に関する章には纏足や箸、飲茶などの慣習や、万里の長城でさえも出てこない。
「ヴェネツィアの古文書にはポーロの家族が中国と直接のコンタクトがあったという記録は全くない」とWood氏。
「ポーロが残してきた持ち物で、中国で発見されているものは一切ない」

1つの説として、マルコ・ポーロはペルシア人の商人が書いた中国に関するガイドブックをコピーしたのでは、という可能性が現在指摘されている。

Marco Polo's exploration may have pulled up short


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