2011/06/12

東アフリカまで到達していた中国・明時代の大船団 水中考古学による裏付け調査

中国・明時代の鄭和による大船団が、その一部が東アフリカにまで来ていたというのは、もはや定説のようになっている。
鄭和の船団が訪れた地域
この説を考古学的にも証明するために、中国とケニアの考古学者は東アフリカ沖で沈没船の調査を行っている。

鄭和は明の永楽帝に重用され、南海へ7回の大航海を行った人物。東南アジア、インドからアラビア半島、アフリカまで航海したと伝えられている。
用いられた船の大きさと船団の規模には目を見張るものがある。
第1次航海の例では、船の大きさが長さ137m、幅56mの巨艦で、船団は62隻、総乗組員は2万7800名に登ったという。

コロンブスの船と鄭和の船の比較
グローバル・ポストが取得した報告では、調査隊がケニア湾沖、世界遺産ラム旧市街の近くでいくつかの沈没船を特定したと明らかにしている。

中国のメディアでは誇張して報告されているが、調査にあたっている水中考古学の専門家達は、発見された沈没船が別の時代や国のものである可能性も否定できないとして、警告している。
たとえ中国の沈没船だったとしても、詳細な情報を明らかにできる状態ではない可能性もある。

中国とケニアのあるメディアでは、鄭和の船団が発見されたとほのめかしており、さらに進んで、ヨーロッパ人が到達する以前に中国人がケニアに来ていた動かしがたい証拠、とまで言われている。
植民地主義者が訪れる前に、中国がアフリカと友好的な貿易を行っていたという証拠は、昨今アフリカで存在感を増しつつあるアジアの大国・中国に箔をつける格好となった。

言い伝えによると、600年前、ラムの近くのパテ島で中国の船が沈み、水夫達が泳いで岸までたどり着いたという。
中国の水夫達は現地人を妻にめとり、その子孫はアーモンド形の目で、明るい肌の色をしていて今でもわかると言われてる。

しかし、これが実話であることを示す具体的な根拠が欠けていた。
ケニアで中国の硬貨と陶器が発見されているが、マラッカ海峡からインドを通じ、アラブ世界を経由してもたらされたものと説明することもできる。

中国のメディアでは、DNAによるテストでパテ島の島民に中国人の祖先がいることが判明した、と報じているが、具体的な報告は公開されていない。
島民の肌の色についても、この地域とインドとの長い年月に及ぶ交易、アラビア半島からの移住民の存在から説明することができる。

鄭和による航海の決定的な証拠をつかむために、費用300万ドル、3年にわたるプロジェクトが現在進行しており、その第1フェイズが昨年12月から今年の1月にかけて行われた。

グローバル・ポストが取得した考古学チームの進捗レポートでは、鄭和の船団が発見される見通しは低いとしており、「我々は鄭和や中国の沈没船のみを対象としているのではない」と伝えている。
レポートには、ケニア湾に何世紀にもわたって、アラブ、ポルトガル、イギリスなどの外国人の波が押し寄せていた、と述べられている。
したがって、中国に限らず、様々な国の遺物が海中に沈んでいる可能性がある。

レポートでは、現地の漁師からの聞き取り、海底レーダーによる調査、文献の調査とダイバーによる確認調査によって、いくつかの沈没船の位置を特定したと報告されている。

ラム群島では、3つの場所で沈没船が発見されている。
マリンディ市沖でも5つの沈没船が見つかっており、そのうちの1つは14世紀のものと考えられている。

今年の11月から始まる第2フェイズでは、ダイバーによる調査と遺物の分析による研究が進められる予定である。

Sea hunt for ancient Chinese ship off African coast




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