2012/03/09

セントヘレナ島に埋められた奴隷達 大西洋奴隷貿易の負の歴史を語る

イギリス・ブリストル大学の考古学者が、大西洋の離島セント・ヘレナで大量の奴隷の墓所を発見した。
セントヘレナ島の衛星写真
島の新空港建設に伴う調査で見つかったもので、悪名高い大西洋奴隷貿易の負の歴史を物語るものだった。

イギリス領のセントヘレナ島はアフリカ大陸西岸から2800km離れた絶海の孤島である。
1840年から1872年の間に英国海軍によって行われた奴隷貿易の取り締まりで、捕獲された奴隷はこの島に送られた。
この時期、総計で26000人の解放された奴隷がこの島に送られており、そのほとんどはルパート湾に到着した。

1869年に英国海軍によって拿捕された奴隷船の様子
奴隷船の環境は最低で、奴隷として送られた人々は航海の最中に死んでしまうことが多い。
また、解放され、セントヘレナに移送されたとしても、ルパート湾は乾燥していて、日除けがなく、常に風が吹いているような場所であり、難民キャンプには適しておらず、さらなる死者を出す結果となったようだ。
少なくとも5000人はこの場所に埋められたと推測されている。

この墓地の調査が2006年と2008年に行われた。
新空港へアクセスするための道路の建設工事に伴うものである。
325体の埋葬が発見されており、単体で埋められているもの、複数人が同時に埋められているもの、もしくは大量に一括で埋められているものがあった。
棺に埋葬されたのはたったの5人であり、青年が1人と、4人の新生児であった。
その他は浅い墓に安置された、もしくは投げ入れらていた。

母と一緒にその子どもと思われる遺体が埋葬されているものがあった。
いくつもの遺体がまとまって埋葬されているのは、家族関係があったのかもしれない。

イギリス・ブリストル大学考古・人類学部のAndrew Pearson博士らのグループは、この発掘調査と、人骨や遺物の分析結果についての報告書を刊行する予定だ。

人骨の分析から、83%は子どもや、10代の若者もしくは若い成年のものだったという。
奴隷商人にとっては、より長い期間働くことができる若い奴隷の方が、商品として価値が高かったことが伺える。
多くは死因が不明であったが、それは当然のようだ。
奴隷船に乗っていた者の死因は、脱水症や赤痢、天然痘などが考えられ、これらは遺体に痕跡が残らない。
しかしながら、人骨から壊血病(ビタミンCの不足により毛細血管がもろくなり、出血しやすくなる病気)が蔓延していたことがわかった。
また、いくつかは殺された痕跡があり、2体の子どもの人骨には撃たれた跡があった。

また、奴隷としてだけでなく、連れてこられた人々の文化についても明らかになってきた。
例えば、多くの人骨で、前歯を削るなどして人工的に改変されている例が発見された。
奴隷は通常、捕縛された時に身につけているものをはぎ取られてしまうはずだが、幾人かはビーズや腕輪などの装飾品を持っていた。

大量のビーズの他にも、リボンなどの繊維の遺物も残存していた。
金属製のタグが遺体とともに発見されることがあり、奴隷を名前や数字で識別するためのものだったようである。

奴隷を対象とした研究は、多くの場合大量の数を取り扱うので、個人を見落としがちだ。
この遺跡の考古学的な調査によって、奴隷たち1人1人と文字通り向き合うことができる、とAndrew Pearson博士は述べている。

発掘によって発見された遺物は現在ブリストル大学にあり、今後はリヴァプールに移送され、国際奴隷博物館で2013年に展示される予定。
その後、遺体はセントヘレナ島に再埋葬されるそうだ。

Archaeologists Unearth Slave Burial Ground On the Island of St. Helena


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